2003北丹沢惨敗記
どこかの大会で手にした 北丹沢のパンフレット それが この大会に参加するきっかけであったのだが えくんちょはマラソンができると信じていた

必ずゴールができると 思っていた・・・。

 1    2003北丹沢惨敗記
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2003年7月6日は人生最大の試練の日となった。私の出身の神奈川県相模原の西に広がる
北丹沢12時間山岳耐久レース(出場料6000円!)にでるので夜 関越〜圏央道〜
中央道相模湖ICを降りて会場に向かう。夜中ずっと大雨が降り続いた。
 
フルマラソンさえ経験ないのに43.86kmで高低差1140mを走って登ろうというクレイジーな大会で、
普通のマラソン大会と違い給水所がほとんどないので水や行動食をザックに入れなければならない。
私は2Lのペットボトルに園芸用の透明ホース1mを接続して、手ぶらで飲めるよう改造した。
 
朝になって受付を済ませると参加賞の中に参加者の度肝を抜く発泡酒が入っていた。
 
しかし「名簿が見当たらなかった」のでこの大会は 名簿の無い大会なんだ と思い込み、
時間が無かったのですぐスタートに並んだ。
この時点では女子が何名でているか分からず不安なスタートになった。
 
小雨の中、朝7時に出発して しばらくして女子は約80名(名簿の人数)だと知った。
 
ロードを走りすぐに山道に入り 人ひとりが限界のような登山道で渋滞が発生。
抜かす事もできないので 集団が一列になって黙々と登る姿は異様で これからどうなってしまうのだろうと
胸騒ぎがした。しかし登山道といえども 登ったら下りがある訳で ちょっとスピードにのりながら 
再びロードに戻ると すこしのんびりした民家のある風景や木立の緑の深さがそこにはあった。
 
しかしやっとの思いで神の川キャンプ場の長い木の橋を渡った9km過ぎあたりから
山岳レースの隠された本性が次々と襲い掛かって来た。
15km付近まで1000mを越える峠越えが始まり みるみるうちに傾斜がキツくなって
走る事などできない。とにかく前の選手についていく事だけに 全力を注がないと
後ろの選手にも迷惑がかかるし 落石させると危険なのでコース取りも慎重に行わなければならない。
さらに少しでも遅れれば 「渋滞の先頭」になってしまう。
小休止したくても休む場所もない。 「喰らいつく」 まさにそんな感じだった。
 
しかし「途中の先頭選手」から「コースが見当たらない!」っと叫び声が!!一瞬何が起きたか
分からなかったが 私の前方の20人位がコースを間違えて下ってしまい
その場で集団遭難状態に陥ってしまった。
一列になって遭難している姿は異常で、後ろからも続々と選手が来て身動きがとれなくなった。
 
しばらくすると後続の選手が正しい道を発見し その後ろの方の選手から 正しいコースに
復帰するしかないので 順位がまるで逆になるというスーパー逆転劇があった。
 
足場は前日からの大雨や選手の通過でぐちゃぐちゃに破壊され へとへとになりながらピークを越えた。
15kmからの下りは熊笹が腰の高さにまで生い茂る獣道をジグザグに下った。とても滑るので
引田天功も真っ青なほど瞬間移動炸裂これぞ本場のイリュージョン(爆)。
私は滑って転倒するのが怖くて なるべく端によって 飛ばす男子ランナーに道を譲ってしまい過ぎだった。
 
第一関門は18km付近で制限時間11時30分の25分前にたどり着いた。この時点で靴の中は
悪路の泥水を吸ってドロドロ。そこで初めて給水とバナナをもらい11時20分頃出発した。
 
無意識のうちに目はキョロキョロ・・・体を支えたいのか 木の枝を無性に欲しがる自分がいた。
 
でも使えそうなものは無く、21km付近までまた400mの高さを登る。先ほどの登りで予想以上に
体力を使ってしまっていたので とてもキツかった。しかも予想以上に時間が過ぎていく。
やっとの思いで2番目のピークを越えてこの時点で12時位。
 
そしてやっと下りのロードにでてマラソンが出来る♪
っと思ったらスタッフが頭上を指差して叫んでいた。
「本日は土砂崩れの為、迂回してください。迂回願います。」
私「・・・・・・・・・・・・・・・??」
 
上に目をやると推定6mは越すであろうコンクリートの垂直の壁を選手がしがみつきながら登っている。
本当のコースに目をやると大量の土砂が行く手を覆いつくしていた。
 
「行くしか、ないん・・・だよね。」
壁に臨時に付けられた黄色いコの字型の金具に手と足を絡ませて必死に登った。
登った後もかなりの迂回が続き 登山道でもないのであろう、崖を踏み外せば転落の危険があるような
極悪路で、本当のロードが見えた時、縄を伝って崖を滑り降りるような格好を取らざるを得なかった。
顔は泥の迷彩色と化していた。
 
この迂回のせいで30分程余計にかかり 必要な体力さえも奪われ、時計を見ると12時35分。
第二関門は1時閉鎖なのに後7kmもある・・・・。1km3分という走った事もないようなスピードで
走りぬけないと間に合うはずもない。
でももしかしたら迂回があったので閉鎖時間が延びてるかもしれない・・・??
 
この時点で私は「終わったな。」と諦めて砂利道を完全に歩き始めた。
後ろから選手が走ってきて私を抜かしていっても 抜け始めた魂は 戻る事が無かった。
閉鎖時間知ってか知らずか間に合わないのに。
 
すっぱり諦めるのがカッコイイのだと思っていた。歩きながら自分への言い訳を考え始めた。
ロードには前にも後ろにも選手の影は消え、霧雨の中 ただ一人 とぼとぼと歩いていた。
 
何の為にこのレースに参加した?この結果をどう説明したら格好がつく??
いろいろな考えが朦朧とした意識の渦に飲み込まれ沈む。
 
しばらくすると背後から久し振りに選手の足音が聞こえてきて 私を抜かして霧の中に消えていった。
完全に間に合わないのに走り続けているよ・・・・・・・・。
 
私 「・・・・・・・・・・・・・・・・・!?」
 
自分の考えの浅はかさに初めて涙が出た。
 
私はこのレースに走りに来たんじゃないかっ!
山道でもないのに 歩いてる・・・・、 そんな為にここにたってるんじゃないんだ!!
 
今できるだけの事をこのコースを相手にもう一度戦ってみようじゃないか!!!
 
私のゴールはもう誰もいないかも知れない第二関門なんだ!!と思い直しそこから再び走り始めた。
そこからは一切歩く事なく走り続け 私は私を抜かしていった選手の背中を再び見る事ができた。
 
午後1時40分。6時間40分間にも渡った私の戦いは終わった。
 
ゼッケンを剥がされ収容車に乗せられ会場に帰る為のバスが来る場所に着くと
信じられない光景が広がっていた。私が最下位くらいに思っていたら 各関門で足切りされた選手の
長蛇の列が出来ていた。早速並んでみたが 後ろにも続々とリタイアさせられた選手が並び、
主催者側もこんなに リタイア を出すと予期していなかったのか バスの数が全然足らない状態だった。
 
1時間以上寒さに震えながら待っていた。バスはここと会場を何往復もしてやっと私にも乗れる順番が来た。
 
バスに乗ってぼんやり車窓を眺めていると またしても信じられない光景が。記録には残らないけれども
ゼッケンもすでに無いのに自主的に会場まで走って戻る選手を見て、頭の下がる思いがした。
 
会場に3時に戻った時、私と同じ リタイヤ者はドロドロヨレヨレ。
反対に完走者は最高の笑みを浮かべながら 仲間たちと喜びを分かち合う姿があった。
 
足の爪は5枚死んでいて 後日すべて剥がれ落ちた。
 
リタイヤしてしばらくしてパンフレットに「完走者には丹沢あんぱんと完走うどんあり!」
と書いてあった事を思い出し、楽しみにしていた うどんにさえ ありつけないのか・・・・とブルーだった。
しかしうどんとあんぱんは参加者全員に配られた。あんぱんは何個か余分に配ってくれた。
早速うどんを木のデッキの上で腰を下ろして食べていたのだが、となりの男性は見事完走したらしく、
完走証をそばにおいてうどんを食べながら仲間と楽しそうに話をしていた。
私はその完走証の記録をちらちらとうかがっていた。
 
確かに私はここにいて 参加していたのに 完走証を手にする事ができず 情けなかった。
 
参加賞である温泉に行く途中、参加賞の入っている袋の中を探したが、温泉無料券が入っておらず、
再び会場に戻り 券が無い事を言うと
「名簿についてますけど。」と一言 言われた。
 
「名簿ですとうぉ〜〜〜??」
 
私の袋の中にはそんなモノ入っていなかった。それがないお陰で スタートしてからの人数が把握できず 
すごく不安な思いもしたのだ。
 
まだスタッフは気がつかず緑の名簿をチロチロ見せるので(まるでもう1枚GETしたいんでしょみたいな?)
まだ言っている、「名簿の表紙の裏にホチキスでとめてあるけど?。」
 
ぐおおおお〜〜〜おら〜〜おんどれ〜〜〜(激) 爆発炎上!!!
 
「そんなの 今ここで初めて見たんだけど(怒)!私の袋にはそんなの入ってなかったし 
ちょっと確認してくれる?(あん??)」っと 久し振りに自分の感情に正直な言葉が出ていた。
 
そうすると「(汗)手作業なのでごめんなさいねえ・・・。」と言ってやっと名簿を入手する事ができた。
 
早速見ると「命」などの作品で知られる芥川賞作家の 柳 美里さんも普通の一般選手として
参加していた事を知ったり、そこで初めてこの北丹沢の前年度の優勝者が
群馬県庁の鏑木毅さんという人物だと知った。
年齢は書いておらず いったいどんな人なんだろう?と思ったが想像はつかなかった。
これが私 お得意の面識のない出会いであるのだが 温泉券の一件が無ければ
何も知らないで帰ってしまっていたかもと思うと 再び 気分が悪くなった。
 
再び戻った温泉の脱衣所ではポニーテールにしていた髪の毛は背中との摩擦で複雑に絡まり、
ゴムもなかなかとれず不快だった。
 
湯船につかりながら参加したのであろう女性のグチに聞き耳を立てていた。
 
すると今年は過去最悪の第一関門で160名、第二関門で100名もの脱落者を出す
大波乱の事態になってた事を初めて知った。迂回の激しいアップダウンがあったにもかかわらず
制限時間には何の反映もされず凄まじく厳しいレースとなった。
 
もしそんなあの第二関門にほんの数十秒、数分遅れで到着していたら と思うと切なくなった。
そういう悔しい思いをした選手が沢山いたと思う。
 
私は諦めた分だけ気持ちを整理する事が出来たからよかった。実際にはやる気と体力が残っていても
関門で制限されてしまい、時間内完走を目指す私達のような選手は、12時間を目一杯使っての
耐久レースは不可能なのではないか?と思った。
 
でも 「何が起こるか分からない。」 それが自然を相手にするアドベンチャーレースの醍醐味なのであろう。
こんなアクシデントにも余裕で楽しめてしまう、そんな精神的な強さがないと
いくら時間があったとしても満足のいく完走なんて、有り得ないのかもしれない。
 
レース中はもうここには来ないかもしれない と思ったが また来年も来たい!
と思うのに そう時間は掛からなかった。
 
帰りは私の昔の地元、相模原の橋本駅ビル(ミウィ橋本)内の「オムライス ポムの樹」で
泣く子も黙る超特大Lサイズを食べて帰った。お台場や有楽町にもあるので
是非行ってみてくださいね♪
 
私は必ず ベーコンとコーンのチーズクリームソース味を頼みます。
早く 群馬県内にもできないかなあと 夢見ています☆
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